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淀城訪問記【駅チカ徒歩0分の高級物件】 [城-京都府]

先週の淀“古”城に続いて淀“新”城をご紹介します♪

淀城へは京阪電車淀駅が最も便利です。と、いうかホームはもう城内なんです。
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この改札口から右側が淀城の本丸、左側がちょうど“淀の下り坂”を下りきった第4コーナー。そうです京都競馬場の最寄り駅なんですね。fuzzyのように城巡りと競馬が趣味の方にはたまらない駅かもしれません。

なんと本丸は駅の自転車置き場になっています。あーあー、天守台の下が原チャリ置き場に。。
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天守台には残念ながら入れないんです。
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はいはい、そんなに厳しく言われなくったって入りませんよ。。
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本丸内に看板があります。
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碑も建っています。
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それでは本丸内を動画で見てみましょう。

本丸内は公園と稲葉神社になっています。

天守台を堀の反対側から見てみます。この写真を写している場所は駐車場になっているので、淀城の本丸石垣の撮影スポットになっています。
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動画で本丸の石垣を見てみましょう♪

う~ん、キレイな打ち込みハギですが夏だけにちょっと草が多いですね。。

それでは淀城の歴史紹介です。
この城は淀古城より、500mほど南にあります。淀古城は1595年(文禄4年)に廃城になっていましたが、大坂の陣後も京都における政治の重要な場所として使用されていた伏見城が廃城となり、1623年(元和9年)に要衝の地であった淀に新たに淀藩が設けられ松平定綱が3万5千石で入部。淀城の築城に取り掛かりました。建材は廃城になった伏見城から転用し、伏見城の天守閣を移築する予定でしたが、二条城に後水尾天皇の行幸が決まったため、伏見城の天守は二条城に移築されてしまいました。
で、もともと二条城にあった天守が淀城にやってきたのですが、なんと、予定していた伏見城の天守閣より小さい。。苦肉の策として天守台のスペースを埋めるために(?)天守閣の四隅に二重櫓を作って連結させるという「劇的ビフォーアフター」もびっくりの5重5層のリフォーム天守閣が出来ました。そしてこのリフォーム天守閣もその他の多くの天守閣同様に落雷で焼失します。。
淀藩は何度か移封がありながら幕末に至ります。

こんな立派な淀城も現在は建物は何一つ残っておらず、堀と川に囲まれたお城はほとんど地形が変わっています。古地図と現在の地図を比較してみましょう。
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もう全然地形が変わってますね。。

とにかく駅から天守台がこんなに近いのは淀城くらいでしょう。
ホームからの写真。天守台の石垣をすぐ近くに見ることができます。
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京阪電車は高架化工事をしていたので、この駅からの景色はもうすぐなくなるかも。。鉄っちゃん城好きは急げ!

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淀古城訪問記【淀殿は淀城にいたから淀殿なんです】 [城-京都府]

この前、勝龍寺城を紹介しましたが、併せて訪問したいのが近くにある淀城です。で、この淀城は江戸時代以前と以後の二つのお城があるんです。今回は江戸時代以前の“淀城”(淀古城というらしいです。)を御紹介します!

淀古城は京阪電車の淀駅から500mほど、歩いて10分のところにあります。

が、

このお城訪問記でおそらく初となる「な~んにも遺構の残っていないお城」なんです。

う~ん、残念。。まわりは完全に住宅街になっているんです。

で、淀古城のあったといわれるところに妙教寺というお寺があります。
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境内にお邪魔しまして、石碑を写真に撮らせていただきます。
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石碑にも書かれていますが、なんでもこの辺りは幕末の鳥羽・伏見の戦いの時に激戦地だったとのこと。

遺構は何ものこっていないのですが、Wikiの画像を参照すると。。
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妙教寺の前面に桂川、側面の小学校沿いに小さな川が流れており、四方を堀に囲まれた城跡のような感じがしなくないですね。妙教寺から桂川方面の動画をご覧下さい。前面に見えるのが桂川の土手です。


それでは、淀古城の歴史を紹介♪
桂川と宇治川に囲まれたこのお城は、応仁の乱時に畠山政長が東軍の拠点として築いたらしいです。その後、管領の細川家によって支配され、その細川家の後に三好長慶が京都を支配すると城主は何度か変わったようです。さらに時が進み、織田信長の時代になります。足利義昭が得意の御教書で信長包囲網を形成し、天正元年(1573年)2月二条城で挙兵しますが、あっという間に信長に降参します。ところが性懲りもなく7月に京都の槇島城で挙兵し、三次三人衆の一人の岩成友通が呼応し、淀古城に立てこもりました。義昭はまたもやあっという間に降参。淀古城には羽柴秀吉が攻めて来て友通は敗退します。

そして、本能寺の変が起こり、勝龍寺と淀古城は明智光秀の支配下になりましたが、山崎の戦いでの光秀の敗北によりその後は廃城になっていたのか、使われていたのかが不明ですが、淀古城にある人物がやってきます。秀吉の側室の茶々が子供を産むための城として淀古城が与えられました。それで茶々から淀殿と呼ばれるようになったんですね。このお城で秀吉の子の鶴松を産みます。その後は大坂夏の陣で活躍した木村重成のお父さん木村重茲が淀古城主となりましたが、豊臣秀次の事件に連座して自害。淀古城は廃城となりました。。

京都の要衝として応仁の乱から重要な位置を占めていたお城ですが、全く遺構がないのは残念です。。

次回はもちろん、“淀新城”の訪問記です!!

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勝龍寺城訪問記【京都の要衝といわれるが本当??】 [城-京都府]

今回のお城訪問記は京都編。京都の要衝、勝龍寺城攻めです!!

勝龍寺城はJR京都線 長岡京駅から歩いて10分ほどのところにあります。駅を出て信号を右折してからず~っとまっすぐ歩くのですが、お城の手前200mの左側にある神足神社に土塁と空堀の遺構が残っています。
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神足神社の境内の反対側にも金網に囲まれていますが土塁が現存してます。
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この土塁と空堀は細川藤孝が1571年(元亀2年)に勝龍寺城を拡張改修した際に外郭として築かれたものといわれています。なんでもこの辺りに神足城というもの(館?)があったらしく、それを郭内にとりこんだようです。

神足神社を後にすると、本丸が見えてきました。
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いやいやなんとも立派な城跡じゃないですか~

北門跡は発掘調査を元に復原されたもので、L字型になっていて簡単に城内に入れないようになっています。
山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀はこの城に逃げ帰ってきましたが、夜陰に紛れてこの北門から本拠の坂本城を目指して落ち延びていきました。
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本丸は3方向は城壁で囲まれているのですが、この門の西側は高さ10m、幅5mの大規模な土塁が築かれています。↓の写真で真ん中が少し低くなっていますが、ここから本丸の西側にある沼田丸に繋がっていました。
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南側の入口に解説版があります。
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本丸内は日本庭園風で管理棟が建っています。
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この建物は正直ガッカリしている方、多いのではないでしょうか?さすがにキレイすぎてウソ臭いですよね。。外見はガッカリですが、中は1階が休憩所で2階が発掘調査時の資料館になっています。例えば出土した鉄砲玉が展示されているんですが、逃げ込んだ明智軍に対して羽柴軍から打ち込まれたものでしょうかね?それともそれ以前に織田軍の三好三人衆の一人、岩成友通攻撃に使われたもの??大変興味深く勉強になります。あ、ちなみに無料です♪

三好三人衆の話も出ましたので、ここで勝龍寺城の歴史を紹介~

勝龍寺城はいつ築城されたのかはっきりわかっていません。南北朝時代の1339年(延元4年)に北朝方の細川頼春が築いた城といわれていますが、この頼春の枝分かれとなる分家の子孫が藤孝にあたるため、藤孝がこの城の城主となるべくしてなった正当性を伝えたものという説があります。で、応仁の乱(1467年~)の時に西軍の拠点になったあたりからがこのお城(当時は防御施設よいうよりは役所的な場所)が歴史の表舞台に出てきます。

戦国時代にこの辺りは三好氏の支配下となり、前出の岩成友通が城主でした。1568年(永禄11年)に織田信長が足利義昭を奉じて上京した際に5万の兵で勝龍寺城を攻めて降伏開城させました。そして細川藤孝が入城し、拡張改修しましたが、その後丹後宮津の移封となり京都所司代の村井貞勝の家臣が城代となっていました。

そして本能寺の変が起こります。貞勝は信長の長男信忠と共に二条御所で戦死し、京都が空白地になると、明智光秀が勝龍寺城と近くの淀城を確保します。光秀は山崎の戦いで羽柴秀吉に破れ勝龍寺城に逃げ込み、そこから
本拠の坂本城を目指して落ち延びましたが、皆さん御存知の通り、途中の小栗栖の藪で落ち武者狩りに遭って落命してしまいます。。その後、勝龍寺城は歴史から消えますが、ずっと後の江戸時代になってから1633年(寛永10年)に永井直清が山城長岡藩主となり、ボロボロの勝龍寺城を改修しようとしましたが、なぜか幕府から許可を得ることができずに駅の近くに屋敷をつくるのみになり、結局勝龍寺城は引き続き廃城だったようです。

資料館によると、駅をすぐ出たこのあたりにその屋敷があったようです。(多分。。)
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さてお城に戻りましょう。城の西側は沼田丸という郭でした。
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模擬の城壁ですがウェザリング※が効いていて時代を感じさせます。
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※ウェザリング:汚れやサビを表現するプラモデル作成の際の用語

近くにあるベンチも輪になって座れるようになっていて、さすが憩いの場ですね♪
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と、このベンチ(椅子?)を見てニヤリとした方、かなりの戦国通です。この椅子と真ん中の大きな○を上から見るとな、な、なんと細川家の家紋のデザインなんです。ユーモアが利いてます。

本丸から南東方向に200mで小畑川にぶつかるのですが、ここが大手門のあった場所のようです。
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さて、この勝龍寺城は細川ガラシャの嫁入りの城というのを売りにしてます。藤孝が在城の際に長男忠興のもとに、明智光秀の娘お玉(ガラシャ)が嫁ぎ、盛大な結婚式を挙げて新婚生活を過ごしたところなんです。
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本丸内にある忠興とガラシャの像
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駅から勝龍寺城までの道は「ガラシャ通り」といいます。
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来年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」にも細川ガラシャが登場しますので盛り上がりそうです

ミムラ、初の大河ドラマ!細川ガラシャ役
http://www.sanspo.com/geino/news/100830/gnj1008300505019-n1.htm

この勝龍寺城は全国に広がっている発掘調査に基づいて復元されたお城のパイオニアのような所です。見る人によってはガッカリしてしまうかもしれませんが、絵図の資料が残っていないためなんとなく当時のイメージができればという感じでしょうか?小畑川と犬川の合流地点で水堀に囲まれているという以外はこれといって堅固な作りの城とは思えない「館」なのですが、天守が作られていたり、対鉄砲に対する防御を考えていたりと近代的な城郭の先駆けとして貴重な城と言えます。

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