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戦国ニュース【早雲の『火牛の計』の新事実!】 [北条早雲]

ちょっと前の神奈川新聞の記事ですが、北条早雲が小田原城を奪取した火牛の計は、実は津波の混乱に乗じたものであるとの新説がでてきたとのことです。


「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1307250013/

北条早雲が1495(明応4)年、小田原城奪取を成し遂げた奇襲戦「火牛の計」は津波被害に乗じた侵攻だった-。静岡伊東市が3月に刊行した市史・災害編で、こんな見解が示された。小田原城奪取については諸説あるが、地震津波の痕跡とみられる堆積物の分析から導き出された“新説”は、小田原市民の関心を呼びそうだ。

 伊東市史によると、市内の宇佐美遺跡の発掘調査で、津波堆積物とみられる中世の地層が見つかった。調査地点の海抜に相当する7・8メートル以上の津波が沿岸に襲来した可能性が高い。

 当時、伊豆半島周辺では相模トラフを震源とする関東地震と南海トラフの東海地震が短い間隔で連続発生したとみられている。宇佐美の堆積物はこのうち、大仏殿まで津波が到達したと記した史料が残る1495年8月15日の「鎌倉大地震」によってもたらされたと解釈している。

 津波堆積層の調査などから、小田原を含め相模湾沿岸の津波被害は甚大で「謎の多かった早雲の小田原奪取という歴史的な大事件も、津波襲来という大自然の猛威が、そうした展開をもたらしたとみられる」との見解をまとめた。

 伊豆の侵攻から大森氏が治めていた小田原城の奪取については「多数の牛の角にたいまつをくくり付けて攻め入った」などと後世の書物で語られ、戦略家早雲のイメージを決定付けたといわれてきた。

 しかし、こうした見方は専門家の間で再考されつつある。年代についても見解が分かれている。

 地元の小田原市史では、奪取は明応4年9月が有力としているが、「翌年の明応5年8月以降、1501(文亀元)年3月以前」との推察も併記されている。

 伊東市教育委員会の金子浩之さんは個人的な見解とした上で「東日本大震災を目の当たりにすると、牛の群れは津波を比喩したものと思える。津波という魔物の牛を追うように早雲の軍勢が小田原城下に攻め入った姿が伝承されたのではないか」と踏み込んだ考察もしている。

 小田原市文化財課は「興味深い見解。大森氏の権力弱体化が早雲の小田原侵攻の背景にあったことは間違いない。その要因の一つとして、壊滅的な津波被害と、その後の混迷があったのかもしれない」と話している。

 今回のような天災と政変を結び付ける研究例は少ないとされる。地層の成分や含有物から地震の発生時期や規模を探る津波堆積物の分析は、東日本大震災でクローズアップされた。ただ、考古学分野での活用はまだ少なく、小田原市内の調査が待たれる。
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いやー興味深い。。小田原城を取られた大森氏もそのあとどうなったのかよくわかってないんですよね。。。そう考えると何かしらの混乱があったかもしれません。

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謀将 北条早雲【北条早雲?そんな人いません】 [北条早雲]

今回はちょ~といつもの戦国時代より時代を遡って、南原幹雄の「謀将 北条早雲」を紹介します。

北条早雲は皆さん御存知の通り、「下克上の元祖」ということで、50才過ぎまで素浪人で、今川家の家督争いをまとめてから90才近くまでの間に伊豆、相模の戦国大名へと成り上がった人物として知られていますが、最近は研究が進んでいろいろと明らかになってきています。「謀将 北条早雲」は2002年に発刊されたもので、最近の説に沿って話しが進行しているとてもよい小説だと思います。以前「謀将 山本勘助」をご紹介した際に、突飛な発想にびっくりしてしまいましたが、南原先生すいません。。「謀将シリーズ」は全部あんな感じだと思ってました。。。

まず、この小説には北条の「ほ」の字も出てきません。終始伊勢新九郎盛時(出家して早雲庵宗瑞)です。北条(後北条)を名乗るのは早雲の長男、氏綱の代からであって「北条早雲」というのは後の人が北条家の初代として便宜上つけたもので、本人もそんな名前で後世に伝わっているとは全く知らないでしょう。

【出自について】
だいたいがもって素浪人のお姉ちゃんが大大名の今川家の当主の側室(現在は正室説が強い)になるのはさすがに厳しいでしょう。現在は早雲のお父さんの伊勢盛定は備中国荏原荘の領主で足利幕府の有力のポジションにいたことがわかってきており、同じく早雲も幕臣であったことがわかってきています。これなら釣り合いが取れてますのもね。

今川の家督争いはおねえちゃんのダンナ今川義忠が勝ち戦の帰りなのに討たれてしまったところから始まります。義忠には竜王丸という子供がいたのですが、義忠のいとこの小鹿範満が竜王丸が子供という理由で今川家の実権を握ります。そこでおねえちゃんは早雲に相談します。早雲は幕臣としてもコネを生かして将軍から竜王丸が15才になったら今川家を相続させるという御教書をもらってきましたが、竜王丸が15才になっても範満は約束を守らなかったので早雲は範満を攻めて殺し、竜王丸を当主にしました。その功で興国寺の城主となり、早雲のサクセスストーリーが始まります。ちなみに竜王丸は元服して氏親と名乗ります。氏親の子供が桶狭間で信長に敗れた義元です。

その後、堀越公方の足利茶々丸の討伐、小田原城攻め、三浦半島の征服と伊豆、相模に着々と勢力を拡大していきます。小説では小田原城攻めには有名な牛を使った城攻めを用いています。これは本当なんですかねぇ?

早雲はいままで88才で死んだとされていますが、現在は64才説が有力です。

素浪人から伊豆・相模二国の大名になるという下克上ストーリーはどうやら後世で作られた話というのが明らかになってきています。でも北条家がすごいのは早雲がピークではないところです。氏綱・氏康・氏政・氏直と武蔵をはじめ関東に勢力をどんどん拡大していった点はすばらしい戦国大名だと思います。早雲の行った四公六民などのよい政策と兄弟が仲たがいをしなかったのが北条の勢力を拡大していった理由と思われます。

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