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信玄の軍配者【軍配者シリーズ第2弾♪】 [山本勘助]

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いきなりでなんですが、、



「富樫さん(作者の方)、すんませんでしたー」




前回のブログにて「早雲の軍配者」を紹介した際に、、

早雲の軍配者【戦国エンターテインメント小説を斬る!】
http://sengoku-neta.blog.so-net.ne.jp/2014-12-26

「風間小太郎の活躍が少なくね?、まさかこれで終わりじゃないよなぁー富樫さんよぉ」的な
上から目線のコメントを記載しておりましたが、小太郎ちゃん出てきました。ちゃんと。

で、第2弾は山本勘助がメインの物語。苦労をしましたが、とうとう軍配者として信玄に仕え、
活躍していきます。信玄の信濃平定に向け大枠において歴史通りに進んでいきます。

連勝の信玄を支える勘助。が、歴史上では信玄が大敗した戦もあるのです。
それが、村上義清に負けた上田原の戦い。

「おいおい、天才軍配者の勘助がいるのに歴史上では信玄負けちゃってるじゃない?どういうこと?」

って思いますよね?

いやーうまいです。勘助はこの戦いに参加できなかったから、負けたとしても勘助の
能力のせいではないんです。
ただ、参加できない理由は「え?それ使っちゃう?」って感じでしたが、

そんなこんなで勘助は軍配者として世に知られるようになりました。足利学校で約束した小太郎と戦の勝負ができるのは目前。もう一人のご学友、冬之助も不遇の存在でしたが、小説の終盤、あの人に仕えて、アノ人の名前になります。
なるほどなるほど。アノ人もいまいち歴史上で存在がはっきりしない軍配者とされていますからね。

さ、役者はそろいました。第3弾「謙信の軍配者」(あ、ばらしてしまった。。)が楽しみです♪



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謀将 山本勘助【恐るべき南原幹雄!】 [山本勘助]

ちょっと前に南原幹雄の「信長を撃いた男」がイマイチだった事をこのブログでも書きましたが、今回は「謀将 山本勘助」を紹介します。いや~オススメですよ。わはははは!!!

この本は上巻と下巻に分かれています。

上巻は所謂、みなさんが知っている山本勘助のくだりです。今川家でなかなか目の出ていなかった勘助は武田家の重臣板垣信形の推薦で晴信の仕えます。勘助は武田晴信の軍師としてそばに仕え、信濃攻略での戦略や調略のみならず、高遠城の改修や海津城の築城など、軍師として縦横無尽に活躍した勘助にあの第4次川中島の合戦が
訪れます。

と、ここまでが上巻。

するてぇ~と下巻はまるまる川中島の戦いで終わると誰でも思いますよね。だって勘助はこの戦いで戦死してるんですもん。。

ところが、、、

あー、言いたいけど言えねぇ。。この小説は下巻から「謀将 山本勘助」が始まるんですよ。わははは!!!
なんでこの小説に謀将というタイトルがついているかが分かります。「謀将シリーズ」の最初の作品として十分笑え/、いや楽しむことができます。

皆様、是非!

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戦国ニュース【山本勘助は実在していた】 [山本勘助]

武田二十四将の一人、山本勘助の実在がさらに証明される文書が見つかったらしいです。

いままでも山本勘助(菅助)と書かれた書状は見つかっていたのですが、勘助のしていた仕事(っていうんですかねぇ?)は明確ではなかったと思います。今回の書状は信州・伊那での活躍を賞したもので、調略を駆使していた我々の知っている軍師の勘助が実在していた可能性が高まったかもしれません。

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やっぱり山本勘助はいた? 群馬、存在示唆する書状
http://www.asahi.com/culture/update/0728/TKY200907280229.html

戦国武将・武田信玄の軍師として知られ、NHKの大河ドラマの主人公にもなった山本勘助。一般の知名度とはうらはらに、歴史学界では実在が疑問視されていた。だが、そんな勘助の存在を示唆する書状が群馬県で見つかった。

 同県安中市の市学習の森ふるさと学習館の佐野亨介学芸員らが昨年5月、市内の旧家で見つけた。山梨県立博物館の海老沼真治学芸員が調べたところ、使われている紙や書状の様式、筆遣いなどから16世紀後半~17世紀初頭のものと判明した。

 書状は武田信玄の花押(サイン)が入ったもの。2通あり、あて名は「山本菅介」「山本菅助」となっていた。

 「菅介」あての書状は、菅介の信州・伊那での活躍を賞し、百貫文を与えると述べている。「菅助」あては、信玄が菅助に宿老・小山田信有の病状を見てくるよう命じた内容だ。

 海老沼さんは書状について「『山本かんすけ』という人物が、大きな武功を立てて褒賞を受けたことや、信玄の側近的な地位にいて武略にかかわる職務に携わっていたことをうかがわせる」と指摘する。

 勘助は江戸時代の軍学書「甲陽軍鑑」に登場する。だが、この書は他の記録との矛盾が多く、他の史料にも名前が見あたらないため、歴史学者の間では勘助の実在を疑う声が強かった。「甲陽軍鑑」以外では、60年代に発見された武田信玄の書状に「山本菅助」の名が出ている。

 戦国時代の文書では異なる漢字を使った人名表記は珍しくない。山本勘助と同じ音を持つ武将が信玄の側近にいたことが明らかになったことで、これまで歴史学界で大勢を占めてきた非実在説は修正を迫られることになりそうだ。
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歴史は奥深いですね。。

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