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道明寺合戦古戦場訪問記①【又兵衛はなぜ幸村を待てなかったのか?】 [古戦場-大阪府]

さて、今回はいつものお城訪問記から趣向を変えて、古戦場の訪問記を紹介したいと思います♪

第一回目の古戦場は、大阪夏の陣における激戦となった道明寺の戦いを紹介します。

それでは、道明寺の戦いをお勉強しながら訪問記を進めていきましょう。

冬の陣の後、堀を埋められた大阪方は野戦を展開することになり、後藤又兵衛の主張で大和方面から進軍してくる徳川軍に対して、河内平野の入口の国分村で徳川軍を迎え撃つことが決定しました。

で、この国分村がどういうところかgoogle mapで見てみると、、
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青が後藤又兵衛の進軍路、赤が徳川方の進軍路。赤丸は激戦地となった小松山になります。
川(大和川)と山の間の隘路の先が国分村になります。ここなら徳川方の大軍と戦うには都合のよい場所のようです。さすが又兵衛♪

大和方面の写真。この方向から徳川軍は攻めて来ました。
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後藤又兵衛は真田幸村、毛利勝永と共に大阪城を出て、平野で一泊。次の日に道明寺で合流して戦うことになりました。翌朝道明寺に到着した後藤又兵衛に2つの誤算が発生しました。この日は濃霧が発生しており、幸村達の軍の到着が遅れたこと。そして隘路の先の国分村で徳川軍迎え撃つ予定が、すでに徳川軍が国分村まで進軍していました。

又兵衛の兵は2,800。対する徳川軍は水野勝成を先鋒とした3,800に伊達政宗10,000ほか大軍が展開していました。明らかに又兵衛の兵数は少ないのですが、又兵衛を幸村達を待たずに進軍し、小松山を占拠しました。

なぜ幸村を待てなかったのか?

もう一度google mapで小松山の位置を確認してください。
google.JPG

この川と山の間を突破されると大軍が一挙に河内平野に展開することになり、兵数の少ない大阪方は一気に不利となってしまいます。又兵衛は自分を犠牲にしてでもこの隘路で大軍を食い止める以外には豊臣方が有利になることはないと考え、隘路を見下ろせる小松山に陣取ったのではないでしょうか?もちろんこの戦いで又兵衛は死ぬ気でいたと思いますが、無策で徳川軍と戦ったわけではないようです。

そんな小松山はがどういうところなのかをご紹介したいと思います。

大阪阿部野橋から近鉄で30分くらいでしょうか?小松山までの玄関口である道明寺駅に到着します。
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小さな駅ですが、駅前はなにやら盛り上がっている様子。。
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又兵衛と同じく、石川を渡ります。赤丸が小松山です。
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川を渡り15分ほど歩くと、見えてきました!小松山です!!
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なんだかもっこりした山ですが、、わかります?小松山って玉手山一号墳という円墳なんです。この地域に詳しい方はご存知だと思いますが、河内平野は古墳がとても多いのです。この小松山の隣も2つほど尾根伝いに古墳があり、尾根の端っこの部分が小松山だったのです。

小松山の隣の古墳(玉手山2号墳)。古墳(お墓)の上に現代のお墓が建つというなんとも不思議な光景。。
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小松山の頂上には後藤軍に真っ先に攻め上ってきて戦死した奥田忠次らの墓があります。
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小松山の頂上からの風景。お墓が2号墳。向こうに見える山も古墳(3号墳)です。
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小松山に陣取っていた又兵衛は多勢に無勢。とうとう支えきれなくなり、小松山から下山。最後の突撃を試みましたが、銃で撃たれ戦死しました。
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小松山の正面にある古戦場の碑
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なんで又兵衛が単独行動をしたのかずっと悩んでいたのですが、小松山の地形を実際に見て謎が解けました。

次回は近くの玉手山公園にある又兵衛関連の碑と道明寺合戦後半戦をお届けします。

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